連盟の歴史
1951年読売新聞社後援で京都六大学が発足。前年までは軟式で仏教六大学(花園大が加盟)が存在していた。発足時の加盟大学は花園大・立命館大理工学部・京都大・仏教大・京都薬科大・京都工芸繊維大とされている。しかし京都大学では、準硬式野球部が1950年夏に誕生し、1950年秋に創設された近畿六大学に加盟する予定であったため、京都六大学リーグには参加していなかった可能性が高い。翌年、京都工芸繊維大が抜け、京都美術大が加わった。52年の加盟校には若干異説があり、花園大・立命館大理工学部・仏教大・京都学芸大・龍谷大・京都薬科大の6校とする説がこれである。京都大は50年に近畿六大学に加盟し、51年春に優勝したが、54年には近畿六大学を脱退している。
1958年3月、日本高等学校野球連盟の中沢良夫会長(京都工芸繊維大学長)を会長に迎えて京滋六大学と名称を変更し、4月26日に第1戦が西京極球場で行われた。後援も京都新聞社となった。中沢会長を迎えた為、この年に作られた優勝旗が夏の高校野球の優勝旗と同じ生地だという伝説も生まれた。(夏の優勝旗もこの年作られている)この時の加盟校は京都大・花園大・滋賀大・京都薬科大・京都工芸繊維大・京都府立医科大の6校。 1966年8月28日中沢会長死去、吉岡直哉京都大名誉教授が、翌年会長に就任した。 1967年秋、仏教大が加盟したが翌年秋には硬式に移行した。 1971年春、京都工芸繊維大が硬式に移行し、1977年龍谷大が加盟した。
1983年理事会設立。井口新次郎日本高等学校野球連盟評議委員が会長に就任した。 1985年9月24日井口会長死去。この年の秋滋賀大経済学部が加盟。翌1986年高坂正堯京都大教授が4代目会長に就任し、9月11日には初の国際試合を皇子山球場で行った。(対上海棒球隊) 1987年1月、村井正夫滋賀県軟式野球連盟理事長が名誉会長に就任したが、同年4月22日死去、遺言により宇野嘉和滋賀県野球審判協会会長がこの年限り名誉会長に就任した。 1988年7月2日京滋六大学の30周年パーティ実施。(新都ホテル)記念事業としてオール京滋として沖縄遠征を行った。1989年秋より大津市長杯。
1991年2月7日中沢良夫初代会長が、準硬式野球関係者では初めて野球殿堂入りした。 1992年6月16日アサヒビール株式会社の樋口廣太郎代表取締役会長が名誉会長に就任。(1994.12.31)大学野球界初の企業冠大会(アサヒカップ)となった。この年の秋、京都府立医科大が関西医歯薬に移籍。 1993年秋よりぴあ関西版に日程を掲載されるようになった。 1994年6月11日女子選手が全国で初めて公式戦に出場した。11月19日には関西地区では初の単独リーグの海外遠征実施。 1996年春より守山市長杯を獲得。4月14日度重なる不祥事により龍谷大を除名。5月15日高坂正堯会長死去。即日渋江克彦副会長が会長代行に就任したが、7月29日死去。菱田嘉明副会長が会長代行を務める。 1997年1月、奥田幹生前文部大臣が会長に就任。秋より龍谷大復帰。 1998年1月27日、井口新次郎3代会長が野球殿堂入り。秋、京都学園大加盟。
2002年12月、オール近六、オール西都と帯同してオール京滋が台湾遠征。2004年より奥田会長退任に伴い、倉知輝雄副会長が会長代行となった。又、同年12月にはオール京滋単独で中国遠征を行った。2007年秋季リーグで100シーズンに到達。 2008年3月9日に連盟創立50周年記念祝賀会が行われた。又この機に倉知会長代行が正式に会長に就任した。 2009年8月、龍谷大学が清瀬杯第41回全日本選抜準硬式野球大会で優勝。全国大会での優勝は連盟史上初の快挙。